4F建設完了レポート

2017年6月から7月に、仙台と横浜で上演された屋根裏ハイツの第4回公演『とおくはちかい』の検証会が、2017年7月15日、仙台市内で行われました。公演メンバーの6名と、希望する一般の観客の6名が参加し、今回の公演について振り返りました。本稿は、検証会ではなされた内容の記録です。

1.こだわりについて

参加者1
いわゆるジャンルとしての「静かな演劇」とはアプローチが違うなって。ある種の何も起こらないという中に作為をもって考えていくというお芝居とは違う、というがわかった。
中村
どっちかっていうと太田省吾さん。静かな演劇と並べるにはあまりにも違いすぎる。無言劇。台本を全部覚えているのに一言も喋らないっていうジャンルの演劇を作っていた方なんですが、太田さんの作っていたものの方が近いというか、やってることは。太田さんの無言劇で、台本全部あるんですよ、無言劇なのに。で、一言も喋らないんですよ。しかも、書いた台本とは違う台本を主演女優は勝手に書いてるらしいんですよ。で、本人はそれをやってるらしいんです。だから太田さんの台本、関係ないんですよ。でも太田さんはそれで良いと思っていて、パフォーマンスが良ければそれで良いという。そういう話を聞くと、「あと何秒伸ばして」とかじゃない。僕がいろいろ決めると僕が見てて面白くない、というのがありまして。
参加者1
今言ったのは見た目の話を言ったんだけど。
中村
造りの話じゃない?
参加者1
作り方のアプローチが違うっていうのも話を聞いてて分かったし、見た目も違うって思ったんだけど、今この場で言いたいのはそういうことではなくて、演劇の一つの機能として、その場にいる人の雰囲気を感じ取るっていうのがあると思うんですよ。居方、たたずまいというか、そういう場を共有しているという感じ。それでなおかつ何も言ってないけれど伝わってくるという、そういうもののありかたっていうのが、この『とおくはちかい』は他の演劇に比べて違うように思えた。
中村
居方が?
参加者1
伝わり方が。その伝わり方がなんで違うのかなって思ったら、アプローチが違うんだなってことがわかった。それはどうしてかっていうと、テキストとかバックボーンを持っているから、ってことだと思った。台本があるからそういう風になってんだなって。もちろん台本を作る段階で、色々立場を変えたり個人の作者が表面に出て来るような作り方は上手く避けられているなと感じた。テキストの方に重心があると思うんですよね。もう一方になにがあるかというと、パフォーマンスと呼ばれるような、もしくは、芸と呼ばれるようなものなんだけれど、なんとなくそうじゃない方向に重心を置いて行っているように感じた。
中村
確かに、背後にあるものをやっている感じは今回凄く稽古の進め方でもあったのかな、と思う。大事なことは言わない、表面化しない、そういう調子で作っている感じはすごくある。それは(震災という題材)もあって。
参加者1
何に価値を置いているか、というのがあると思う。一つひとつテキストを吟味しつつ、やったことを自分たちなりに研究して、このぐらい執拗にやるということを、それはテキストへのこだわりということだと思うけど、ああそうかと思う。やっぱり私なりの見方としてはひたすら眠かったんですよ。ひたすら眠かったのを心地良く寝れるようなBGMとして見ていたところがある。でも、それとして成り立つと思うし、そのように成り立っても良い、という風に受け入れられているんだと思う。表現としてはたぶん、薄い。薄い、もしくは、意味内容にこだわらないという風な、そういうところの表現っていうのがある、っていうなら、そういう風に見ることもできるよね。そういうところに「震災」っていうのが入ってくると、ちょっと分からないのだけど。そこはそれが言いたいことだったのか?っていうのが入ってくると、重さを計りかねるところがあるけれど。
参加者2
「言いたいこと」っていうのが良く分からないんですけど、メッセージ?
中村
主張?
参加者1
ではなくてね、こだわるところ。何が良くて何が悪いっていうのがあると思うんだよね。みんなたぶん。で、その良いとか悪いとかいう判断をこだわるじゃないですか。(稽古を)見ていて、「今のもう一回」みたいなときに。それはこだわりだと思うんだけど、そのこだわるポイントっていうのは…。大概の劇作家っていうのはもうちょっとスマートに売りを決めるんだと思うんですよね、これで行こう、みたいな。でも屋根裏ハイツのこだわり方はわかんないとこがあって。何にこだわっているか測りかねるところがある。
中村
これまでの作品もすべて?
参加者1
うんうん。
参加者2
今回初めて屋根裏ハイツさんを拝見したのでこだわりとかそういうものはわかんないんだけど、(参加者1が)「テキストが〜」って言っていたのは、最初にこのテキストを見た時に、(出演者に)震災のことについて喋らせて、フィードバックしてテキストに起こしていたと思ったら、実はテキストが先に存在して、フィードバックしてテキストを詰めていって、っていう点でテキストがすごいって言ったんだと思うんです。で、「形式が〜」って言っているのは、(アンケートに)今回スタイルが会話だったのかどうか分からない、っていう風に書いてるんですけど、そういうのを見ると村岡さんと牧田さんがしている会話は会話なのか。ドラマとかフィクションで行われている会話っていうのは物事があって、その整合性だとかロジックだとか論理があるけど、人間っていうのはたぶん、その気分とかその時の流れとかで何かを投げ合ってるだけで、っていう感じのこととかがあって。それがそのスタイルっていう風な感じになってて。一見すると、会話をただ聞いてると、眠くなるような何だかよくわからない、っていうような感じだけど、その裏には高度な緻密な、裏打ちされたものがあるっていうのを言いたかったんじゃないかな。っていう風に今、聞いてて思ったんですけど。
参加者1
例えば、ああやって会話するときに正面向いて会話するっていうのはほとんどないと思うんですよ。ちゃんと正面切って対峙してるな、って思った。これは、リアリズムの基本として、人に向かって話すときはそっち向いてない。むしろ自分の方を向いていたり、別の人の方を向いてたりして、直接発話してる人が発話してる対象に向かって面と向かって話すときって、罵倒するときですよ。
参加者3
でも男女の違いもあるので、女の人は割と互いに見合いますよ。っていう話を見た後にしてて、男の人は割と見ないで話す。あと割と顔を見ないで、のどの辺りとか胸の辺りを見て話すっていうのが男の人は多くて、でも割と女の人は目で訴えかけたり。
村岡
そうですね。だからカフェとかでも結局対面になったりしますもんね。
中村
ファミレスとかもそうですけど、対面になることを強いられる空間を作る、っていうのはありましたね。あれは部屋でしたけど。
参加者1
そういう部分で、例えば目線を外して言うみたいに決めていくやり方もある。それとは全然アプローチが違いますよね。
中村
違います。体の動きとかは細かく決まってはいるんですけれど、あの二人から起きたこと以外はほぼ何も。あんこくらいですよ。あんこ置いて、もう一回あんこって言え、とかは完全な演出の指定ですけど。
参加者1
あれ(あんこ)が出てきた時点で、なんか抽象だって思った。具体物じゃないって。
村岡
(アンケートで)あんこをあげるシーンを見て弔いだと思ったという人がいましたね。仙台で。だから抽象物に見えている人は意外といるかも。
参加者1
だから具体物に見えなかった。意味のある物にすら感じなかった。物体。

2.役の交換は出来たのか?

参加者3
見てて、お二人の立場を知っていて、二人がチェンジしてもいけるんじゃないかと思ったんだけど、実際作ってる段階で二人がチェンジしてたっていうのにびっくりして。なんとなくお二人を見ていながらも空間を見ている気がして、二人の会話している姿かたちをそのまま見るっていうだけじゃなくて、二人がいない空間とか天井の方を見ながら、ぼけーッとしながらも「ああこういう会話あるな」って想起させられる、考えられる余白があると思っていて、結構話してることって本来深刻なことだったりするんだけれどもその深刻さがあまりなくて。深刻なことって重たすぎて入っていけなかったりするってよくあることだと思うんですけど、震災って重いテーマも含まれていながらも、そういう語り口ではなくて。多分女優さん二人の語り方とか、空間の作り方だったり距離感だったりそういった部分が、抵抗感のない作り方をされていると思うんですよ。だから、そこに抵抗なくそこにスッて溶け込んでいって、そこに言葉っていうのがあまり重くなく自分に響いて来るからこそ、なんとなく自分の中でどう受け止めてどう捉えるかっていう、深い所に潜っていくのは、舞台上じゃなく自分の中っていう感覚がすごくあった。だから、終わった後にすごい考えること、持ち帰って考えることが多いっていうのは、そういうところが関係してるのかなって、思っていて。適切な距離のとり方をすごく考えさせられた。
村岡
仙台でやると、(観客に)私の顔がばれているし、牧田さんもばれている人もいるから、そうすると、っていうのはあるねって話は一回(稽古中に)したけど、でも別にできないことではない。
参加者3
技術があるからね。
村岡
技術というか、結局私たちも今このAB振り分けられているこの役すら今は演技なので、演技だなあって思っているので、これが実際私の立場ではないというか、とは言い切れないなと思いながらやっていたので、逆に逆転してもらった方が、もっと離れてくれる部分も増えるというか多いんじゃないかって思うので、やりやすくなったりとか、することもあるかもしれない。逆に辛くなることもあるかもしれない。
牧田
逆にしたら、より大地君の言葉へのこだわりが際立ったかもなと思った、今。どう見たってその役柄に近いから私たちが。その近さを逆にすることで、足りない部分が何なのか、伝えたい?見えたいものがなんなのかはっきりしそうかも。でもそれはちょっと記号化するみたいなことにも近くなるかもしれないから、良いかどうかわからないけど。やってやれないことはないんでしょうけど。ひとりでやったりはする。一人で逆だったらどうなんだろうっていうことを帰りの自転車に乗りながらやってみたりしてた。
中村
え、ちょっとよくわかんない。村岡がやっていた役を?
牧田
村岡がやっていた役をやったらどうなるんだろう?って思って、一人自転車に乗りながらやってみてた。
中村
おもしれー。それはどうでした?
牧田
やりたくねーなーって思った。
村岡
横浜で一回やりましたよね、逆転。あかりづくりかなんかで座ってなきゃいけなくて、勝手に逆転はやってました。
牧田
やってると、相手のどこは聞いてて、どこは聞いてないっていうのが
村岡
すごい分かった。意外と結構全然覚えてない。
中村
僕的には、言い得なさ、みたいな言い切れなさみたいな時間が、入れ替えると多分全然変わるんだろうな、とは思う。相手の想像する時間とか、の作り方は変わってくる気はするので、じゃあ、いつかやってみましょうか。やってください。俺は知らない。

3.横浜と仙台の反応の違い

中村
(仙台と横浜で)割と共通な部分はあるけど、だから違ったって感じはあまりなくて、どうですか?
村岡
そんなに。でも、書かれたアンケートを打ち込みしていると、横浜の人の文字量がすごく多いなと思った。仙台もすごく長い人は長いんですけど、よく終演後のあの時間で書けるなあって思う。あと仙台のアンケートよりも、横浜の方が作品の内容外について触れる人も多いって思った。会話劇についてとか、その作品のスタイルだとか、あとはその役者の演技だとか、技術的な部分とかにも触れる人が多いというか、そこにだけ触れる人もいるというか。
中村
(アンケートを見ながら)これ、結構印象的だった。「怖い間」、「怖い」「不気味」「不穏」とか、結構あった気がする。居心地がいいって言う人ももちろんいたけど、仙台でそんな不穏とか見なかったような気がする。
参加者3
砂で埋められていくって考えて普通にちょっと怖かった。で、どうしても震災の時に津波とかで家々が埋められた様子とか想像するし、そういうのが出てもおかしくないと思うし、なんか、突然砂かけ始めるじゃないですか。表情もそこまでなく、その「これはなんなんだろう」みたいなぞわぞわした感じはするかな。それは「怖い」ってとっても当たり前なんじゃないですかね。
中村
なるほど、ぼくが勝手に見落としてるだけですかね。
中村
僕が見てて凄く面白いなと思ったのは、“覚えてない”っていう言葉が、すごくパンチラインとして受け止められたという感じが凄くあって。あと、ちょっとおもしろいのは、火事の話を前半と後半で一回ずつするんですけど、二回目に火事の話をしてるときに、あれは聞き手も観てる側も完全に忘れてて、完全っていうか喋ったってことを、10年前に喋ったってことを忘れている、ということとして受け取られた。二人がすっかり忘れているということが結構怖いみたいな、
村岡
それがすごく印象的だったって書かれているね。
中村
そういう反応があんまり仙台で無かったような気はした。“覚えてない”に対する何かっていうのは客席違うな、って思ったのと。あと仙台だと、村岡の話に「うんうん」みたいな感じが客席にちょっとあるのが、横浜だと「ふう~ん」みたいな。ややポカンみたいな。3,40分ややポカンのまま行く、みたいな。でもそれは集中が切れるとかではなくて、凄いテンションで見てる。ちゃんと見てる感じはすごいあったんだけど、それはスッと落ちている感じというよりは、逆に牧田さんの話とかの方が聞いてるな、みたいな。聞いてるっていうか、落ちてるように見えた。僕が勝手にちょっと(そういう風に)見てるところもあるけど。
参加者3
当事者としてどっちで見るかってことなのかね。
中村
とか、自分勝手にそう結び付けたけど。村岡の話への反応の度合いが、横浜の方が小さいように感じた。
村岡
気は楽になったけど。横浜の公演、多分私の思い込みも入ってるんですけど、「別にもう言ってもいいかな、この人たちだったら」っていう感じは、多分普通の会話の時もこの人にだったら話せるけどこの人にだったら遠慮しちゃう、みたいなそういう話と同じだと思うんですけど、それはお互いのコンセンサスもあるし、私の主観で勝手にこの人なら良いってしてしまっているときもあると思うんですけど、多分そういうところでだと思います。
中村
牧田さんは何かありましたか?
牧田
特に(ない)。でも、横浜の方が聞いてくれてる感じはした。単純に空間として近いからっていうのもあるだろうけど、仙台の方は聞いてるっていうか「あるある、うんうん」みたいな感じで、横浜の方が知ろうというか、聞こうみたいな、耳を傾けようみたいな感じがした。
中村
横浜のお客さん集中力がすげえなって思った。
牧田
結構ある一定の集中から結構継続しているところがあって、ずっと聞かれてるみたいな、ちゃんと見てもらえてるみたいな。
中村
空間が狭いっていうのが大きいのかな。あと多分、STスポットっていうところでやったんですけど、STのお客さんが結構、演劇を見慣れてる人たちがいっぱい来てた。「こんな小さなの知らないよ」みたいな、「何やってるかわかんないよ」、みたいな人が少ない。それが別にいいことなのかちょっとよくわかんないんですけど。行ってみて、ハイコンテクストを、ハイコンテクストを別にやってるつもりないけど、ハイコンテクストを受け入れ慣れしてる人たちに向かってやるってことが、僕が当初思っていた、「別の土地でやることで反応の違いとかがあって、それが忘却の速度の違いで〜」、みたいな話を、このハイコンテクストを許容できる人、しかもこの屋根裏ハイツっていう仙台から来たよくわからん、名の知れてない劇団がやってくることの情報をキャッチして、わざわざ見に来る人が、僕が思っていたその距離感とかの、言い方悪いですけど実験に対する良い対象者だったのかっていうと疑問がある。っていうのは自分の中ではあったんですけど、でも反応の違いとしてはすごくあったな、という風に思います。だから、僕、彼女の最後のセリフの「私には特に何かあったわけではないからさ」って言うと、客席がちょっと変わるような気が、僕は勝手にしてたんですけど。僕の思い込みもかなりあると思うんですけど、そういう感じは仙台ではなかったな。

4.震災演劇

村岡
仙台だと、すべての会話が流れるというか、すべての会話が同列に話せていたことが、横浜だとそのパンチラインみたいなのが、パンチラインだなっていうのが伝わってくるというか、それはなんとなくあった。この言葉を言うことで今衝撃が走るみたいな、緊張感だとか。本当に近かったので、その空気とか、見られてるときを感じるのはあった。私が(空気を)感じてそうなったのか、私が勝手にそうなったのかはわからないですけど。
参加者2
仙台だと「あるある」ってなっていたって言ってましたけど、言葉は悪いけどダル~っと見てて、あるある的な感じで随所随所聞けたりとかして、これ(アンケート)のどこかに書いてあったんですけれど、割と内陸の方の人だから、最後の「私になんかあったわけじゃないし」っていうセリフもそれ単体で聞くと重いあれに聞こえるかもしれないけど、多分内陸の人とか、僕も内陸のほうなんですけど、だから普通にそのまんま流れる感じ。震災って言って、世の中凄いことになっていたけれども、自分のとこは本当にガスとか電気とかだけで、何か被害があったわけでも友達が死んだわけでもないし、凄いことになっているんだな、ぐらいの感じっていうか。多分本当にあんまりドラマティックな感じじゃなくて、それがそのまま通り過ぎていく。だから最後のセリフもただそのまま受け止めることができるのかな、って僕の個人的な感覚。
参加者3
ああいうフラットな受け止め方を考えた震災の演劇ってそこまでないかもしれないですよね。みんなドラマティックに物語を盛ろうとしているのが多いし、語り手の人とかもある種、劇的だな、って思いますけど、相手を引き込もうとか自分の世界にもってこようみたいな、主張するような喋り方をするところ多いけど、そうじゃないからこれはこれで私はすごく面白かった。
参加者4
だからちょっと、テキストかなんかにも書いてあったけど『この世界の片隅に』って新しい戦争映画だなって思って、そういう感覚に『とおくはちかい』はそっち寄りなのかなってなんとなく思ってた。
中村
『この世界の片隅に』を目指します、ってやってた最初。ちょっとだけ。でも牧田さんが見たことないから、だからやめたってことでもないんですけど。それは半分冗談で喋ってましたね。稽古とかで、見た方がいいっすって。
参加者4
震災後、僕石巻とかに行くことが多くて、それこそ本当に家族亡くしてる人とかの話も聞いたりして、やっぱりそういう人の話と仙台に住んでる人の語りって全然違うから、そこに対して「あー、ここで書くんだね」と、仙台に住んでるような人たちを書くんだな、と感じた。でもそれはある意味新しいし、新鮮だったんじゃないですかね。
中村
沿岸部の人と仙台の人で『とおくはちかい』やったら全然テキスト変わると思うんですけど、でもそんなの今無理かなー。
参加者4
なんかでも、大多数の人って沿岸部住んでない
中村
ああ、そうですか。
参加者4
日本の人口で言えば。人口比で言えば住んでないし、仙台の方が圧倒的に多くて、仙台に住んでる人でさえ被災地の実際すごい被害があったところに行ったことある人ってあんまりいないし、そういう人に語りかけるっていう意味では良かったんじゃないですかね。 
参加者3
多様な視点がないと現実をしっかり見れないし。
参加者4
なんか「震災はこういうもんだ」っていうと、僕にとっては本当に当事者、本当に沿岸部にいた人に対してはすごい陳腐な気がする。確かにかなり離れてるところからすればそうだね、その通りだねと思えるけど、沿岸部とかだったら鼻で笑われるんじゃないかな。「あなたたちそこしか見てないんですか?」って言われそうで怖い、俺がやるとしたら。沿岸部の人たちにそんなこと言われそうな気がする。怒られそうな気がする。
参加者2
一時期滝のように存在したポスト震災小説とかそういった類のものとか本当に「ああ~」っていうのは確かに(あった)。だから深刻なことをそのまま深刻に打ち出すっていうのは今やるのは多分難しいだろうから、だから周縁から、周りの淵からやってくみたいなのはあありかも
参加者4
それ聞いて思ったのは僕はそういう作品だと、震災の何か代表をしてるぜ感が出てるのがちょっと苦手なんですけど、でも『とおくはちかい』はごく一部の人の話、視点ですよ感が出てて、それはすごい好感があった。それは別にすべてじゃないしただ一部のこの人の話ですよっていう感が出てて。

5.とおくてちかくて、ちかくてとおい

参加者5
僕としては誰も当事者がいない気がしたので、村岡さんがいわゆる被害に遭った者感、肉親か自分が被害に遭ったという人でもなかったし。牧田さんもそうじゃなかったじゃないですか。それで当事者の体験に対して、結構ダイアログ、対話するような座り方だったと思うんですけど、でも実際質問してることは自転車とかそういうことで、被災体験とか被災の出来事の現象に対してどうだったっていう風に見たこととか聞いたことを語ったりする方にはあまり話がかみ合っていないように感じた。かみ合ってるとこもあったかもしれないけど、全体の印象としては、火災、火事のこととかその被害、街の様子に対してはお互いがモノローグになってるような気がした。実質はかみ合ってるんだと思うんですけど、僕は耳で聞いて言語を認識する能力が低くて、人が言葉で話していることを頭に全部入らないから他の人の感想じゃないかもしれないんですけど、今の7年目とか3年目で、どっちが被災者何だろうとか、もしくは人に配慮する空気感って、逆に今しか残せない気がするし、その空気感は、次の知らない人たちとか、丁寧に、今でも丁寧に見てない人とかは、そういうことはあまり気にしない、気にしてない気がする。今話したように「私は震災代表します」っていう語りの方がテレビではもちろんマスメディアでは多いはずなので、そうすると繊細に丁寧に震災を見てる人には共感できる気がします。そこはすごい良い所だと思うんですけど、知らない人には届かない感じがする。次どうなるんだろうって思う。
中村
次? とおくはちかい2?
佐藤
男二人とか
村岡
横浜の人(の感想)だと、さらに何年後が見たいみたいな
中村
定点観測物として4時間くらい
村岡
の超大作にしてほしいって
参加者4
辛いね(笑)
中村
そうでも、結局どっちも当事者じゃない感はずっとあって、それは書けなかったっていうのはもちろんあるんですけど、やりながらどっちがどっちが遠いんでどっちが近いのか良く分からなくなってきたなって思いながら初日を迎えました。
参加者5
その遠くて近くて、近くて遠い感は出てました。牧田さんの方が自転車で来て色んな見たことを最初語っていて、村岡さんは逆にそれを受けてあまり直接的には体感してなくて、生活的なことで回復したよみたいな話はするけど、ラーメン屋とかの話はズレてる。そういう遠くて近い感じはすごく出てるし、あと今日すごい思ったのは僕あの友達関係だと人の家に上がんないなと。近くて遠いのになんで二人はずっと10年後もまたっていう怖さはあった。

6.二人の関係性

参加者4
っていうかあの二人の関係性すごい気になる。
参加者3
書いてないもんね。生活感もあんまりないし。
参加者4
そう、で、しかも楽しそうでもないし。
参加者3
盛り上がってもないし。
中村
楽しそうじゃないってすごい言われたね。
村岡
なんだろうでも、逆にめっちゃ親密だったりすると別にそんな「うわああ!」みたいにはなんなくないかなって思うんですけど。
参加者4
でも久々に会った友達は結構テンションあげあげじゃない?
村岡
そうか
参加者5
大丈夫?とか言う気がする。それが言いにくいってとこが、友達だと大丈夫?って言えるんだけど、知り合いだけどあんまりどうなってるかわからない、この人の地元が沿岸部なのか、山元町なのかわかんない人には大丈夫?って聞いちゃうと津波でやばかった場合もあるし、地震でダメだった場合もあるから、下手に言えないっていうその遠くて近い感が出てた。それを家の中でやるっていう、提示することがある意味不気味さ。
中村
家に上げないか、そういう話は結構しましたね。
参加者3
女の人ってあと、お家行くとなんかとりあえず周りを褒め始めませんか? 窓際とか行ってこう見てみたりとか、こういうもの飾ってるんだ、みたいな、そういう話をしてからどれ座るかってなるのに、そういうのもなく直線で、たんたんたんって座って話し始めるっていうのは確かに奇異な感じはする。
参加者5
そういう意味で距離感近くなったら90度の関係で座るとかあると思うんですけど、半年後も10年後もずっと同じで、同じ遠くと近さがずっと並行してた緊張感っていうか繊細さっていうかがあったと思うんですけど。
中村
なんかその緊張感がある状態にしたいというのはあったんですよね、その向かい合うっていう状態にしたくて。でも二人とも、これ本当一番最初に二人に(2017年)4月の時点でやってもらったワークショップは、二人に自分の家の間取りを再現してもらって、そこに客人を案内してだべるっていうのをやってたんですけど、その時は二人とも招き入れて座らせるとやっぱり対面を絶対取らなかった気がする。だからあれ(作品)は芝居ですよね。対面を強いることで緊張感というか、そうしないとだらだらしすぎちゃって。
参加者4
だらだらしちゃだめだったの?
中村
いや、いいんですけど、多分もっと時間かかったと思います。言い得なさみたいなのが生じ辛いというか。
村岡
そう、生じ辛いところがあって、あまり仲良すぎると。
中村
友達すぎると色々喋っちゃうかもとか
参加者5
仲良いんだ、っていう感じにお客さんは置いて行かれちゃうかも。

7.女子トークとイメージの話

参加者6
私、逆にすごい想像しちゃったんです。2人がわからなすぎて。村岡さんの役の人って自分で何か話すの苦手な人なのかなって。シチュエーション的に心配してきてくれた友達になんか近況伝えなきゃみたいなところとかあるのかな、と。わからなさが逆に、私の中では二人の関係性はなんなんだろうって埋めなきゃ見てらんなかったので。小説読んでるみたいな印象を受けました。抑揚もそんなに台詞の言い方とかすごく淡々とした印象だった。自分の中で小説を感情移入するときってイメージ膨らむけど、ただずっと文字をたどって読むときとかもあって、それにすごい似てて、小説も全部のこと書ききれないし全部のこと描写しないものもあるじゃないですか。あとすごい空白の多い漫画とか、モノローグの全然ない漫画とか。そういうものを読んでるとき私は間を埋めたくなってくるので、そういう感じがしました。
中村
村岡は喋るの苦手ですね。
参加者6
本人が?
中村
本人が、と僕は思います。それはでも結構反映してる。あとやっぱ半年後はちょっとハイだったみたいな、喋りたがってた時期みたいな気もするよねって話は。サービストーク的に来た人に笑えるネタを提供するみたいな。なんかそういうテンションはあったよね。
参加者4
そうか、もともと話すのが苦手な人であれなのか。
中村
わかんない(笑)でも別に擬音をいっぱい使っちゃうとかそういうのは本人は別にだと思う。なんかでもオチがない話をするのが好きですよね。これ女性がなのかな? わかんないけど、二人とも。「何の話だっけ?」みたいな、最終的に。「ま、いっか」みたいになって。
村岡
なんかオチを話したいわけじゃない話ってありますよね。言いたいところがあって、それは別にオチではないみたいな。だからこれを言ってしまうとあとどう収拾付ければいいかわかんないみたいな。
参加者3
「だから何?」って言われてもうーんみたいな
村岡
でももう満足みたいな。
中村
それは一番勉強になりました。プレ稽古で。いつまでも喋ってるから。そして結構退屈してるんですよね俺は見ながら。でもこの退屈もありかもしれないみたいな。
村岡
結構めっちゃ話題探さなきゃと思って探してた。
中村
そうそう、めっちゃ話してもらってるんだけどね。そして俺も質問投げるから、無理して話してもらってはいるんだが、
村岡
でも途中からわかんなくなることはある。もう話したくなっちゃうみたいな。
中村
それは面白かった。結構面白くない時間が続くんだけどいつも。でもその退屈感を楽しむみたいな感じがだんだんしてきてそれが反映はされてる。良い退屈。
参加者4
この写真見て思ったけど、窓の外とか話すところあってもよかったなって。
中村
そうなんですよね。でも僕演劇でそういう話されちゃうと途端に空間がしぼむ感じがして。ディテールを話すじゃないですか、例えばここだったら畳でね、みたいな、あの(作品の)中だったら服がかかってたりとかするとして、そういうことを喋ったり、身振りで入れると、つまんなくなるんじゃないかってすごく思った。ディテールをお客さんに想像させる答えを作る感じがして、それは面白くないかもと。だからあの黙ってる時間も牧田さんとかに、この部屋の感じを見まわしたりとかあんまりしないでほしいとかは、1,2カ所やってるんですけど、やらないでほしいって言って。
参加者4
そこはディレクションあるんですね。
中村
ありますね。だからこれとかはありですね、机の縁をなぞるとかはいいですとか。
参加者4
そこはこだわりがあるわけですね。
中村
こだわりっていうか、それって、見えないものを見えるようにするってことじゃないですか。それって他の想像させるとは違う想像だな、と思って。なんかちょっと窓の風景とか喋っても、そこを想像するのにお客さんが一個頑張らなきゃならない気がするっていうのが僕の感覚。でもそのディテールがあった方が安心できるっていう人もいるのかもしれないけど。僕はそうでもない。そのディテールがわかればわかるほどつまんなくなっていくような気がちょっとする。
参加者2
つまんないっていうか、こういういい方が適切なのかわからないけど、台無し度が高くなっちゃう。要は空間を暫定的な箱として、だからそのテーブルとかオブジェクトとして確認するのはいいけど、アイテムとしてっていう風にすると、具体性が出て来ちゃうからっていう感じなんですかね。
中村
そうですね。いっつもやらないと思います。見えてないところをどうのっていうのは。見えるものしかないから。見えるもの以外のことはできるだけ語らない。でも、イメージの話は、それこそパンが降ってくるみたいなのは簡単にできるからそこはやる、みたいな線引きはすごいある。それはなんかこだわってるんでしょうね。

8.とおくはちかいを終えて

中村
震災を扱うことで正しいっていうか、批判を置きづらいみたいなのはあるのかなっていう気持ちはすごい今回あって、感じました。今まで(の公演)でいつも「つまんない」みたいなのがちゃんと半分くらいあったんですけど、今回少なくて、不安です逆に。そういうの書けない空気みたいなのあっちゃうのかなとか、っていうのは仙台で感じた。っていうのと、あと横浜も踏まえて、俳優の関係で僕がトップに立ってっていう関係じゃなく作れたっていうのが今回凄くあって、それは成長です。それは本当、今までと力関係違う感じでやれたな、とは思います。いつもやっぱり僕が書いたテキストそのままやってくれってやってたと思うので。3Fくらいからああいう風に俳優とやるっていうことがわかってきたかな、っていうかそれが面白かったかなって思います。