「その静けさを凝視しなければ」

綾門優季氏(青年団リンク キュイ主宰 劇作家/演出家)

屋根裏ハイツ『とおくはちかい』では、恐らく重要であるはずの話が重要そうに語られない。クローズアップされない。起承転結を見出すことが出来ない。それは物語であるという前提を共有していなければ、見過ごしてしまうような重要さである。たとえばショッピングモールのフードコートで、全く同じ二人が全く同じ会話をしていたとしても(あんこを取りに行くなどの不自然な動作を抜きにすれば)誰もそれが芝居であることに気づかないのではないか。そう思わせるような静けさがそこにはあった。注目されない、けれども本当は見過ごしていてはいけないのではないかと、思わず考え込んでしまうような静けさ。それはわたしたちの日常の中に不意に現れる。掴まえられることも、逃してしまうこともある。誰しもそんな経験がある。そんな経験の連続で日常は成り立っている。

二人が舞台美術のミニチュアと思わせるセットに、砂をかける。乱雑にではなく、言葉を選んでから口に出す流れのように、丁寧に。量を考えて。場所を考えて。客観的にどう見えるかを考えて。そうしてかけられた砂はしかし、ほとんどがその場にしがみつけることもなく容赦なく落ちていき、ごく僅かな砂だけがテーブルの上に、椅子の上に残る。何が残るかは選べないし、そのほとんどは残らないどころか、過ぎ去った痕跡さえ存在しないのだ。3.11の日の僕の記憶が、大学の校舎から自宅までをてくてく歩いている時に友達と交わした、深刻とは到底呼べないような会話の断片しかないように(もっと重要なことがあったはずだ、という実感だけがそこにはある)。覚えていても仕方ないのに、忘れられない断片たちがしかし、僕の記憶のすべてでもある。それは僕そのものである。

注意深く聞いていなければ、過去にあった大規模な火災が、二人にどのような影響を齎したのかわからない。想像するきっかけを逃してしまいかねない。シェイクスピアの戯曲の登場人物のように感情の丈を美辞麗句で飾るわけでもない、チェーホフの戯曲の登場人物のように絶望の余りピストルで頭を撃ち抜くわけでもないわたしたちは、大きな出来事を前に、過剰な反応を示すことはむしろ極めて稀である。それは記憶の片隅に、何気ない会話の端々に、ひっそりと埋め込まれ、伝えられるのだ。いや、たとえ何かを伝えようとしなくても、往々にして伝わってしまうのだ。「それ」が何かを考えるのは、話し手ではなく聞き手の役割である。それは僕の仕事でもあり、あなたの仕事でもある。あなたがこの芝居を観ていないとしても、そんなことは関係ない。これは昨日の話。今日の話。明日の話。そして死ぬまでの日々の話。